映画【アフターヤン】感想
昨日映画【アフターヤン】を観てきたのでその感想を。
この映画を観ようと思ったのは音楽が坂本龍一さんだったからだった。
監督脚本は韓国系アメリカ人コゴナダさん(変わった名前…)
ポスターには白人男性に妻と思われる黒人女性(しかも丸坊主)そして養女と思われる中国人っぽい可愛い女の子、そしてこちらも中国人かと思われる青年の写真。みんな別の方向をみていて、唯一女の子だけがヤンを見ているという構図が物悲しい。
青年の名前はヤン、彼はアンドロイドである日動かなくなってしまう。
彼が動かなくなったあとの家族の焦りや喪失感、彼の記憶を通して
彼の存在の意味など、静かに問いかけていくような作品。
映画が終わったときの感想は正直「あれ?終わったの?」ていう感じだった。
ずっと何かぼやけていて芯が見えないまま終了した感じ。
楽しかった、とか良かったとか悪かったとか何も浮かばないぼんやりした気分だった。
でもそのあとずっとあれはこういう意味だったのかななど考えるうちに、すごく考えさせられるというかいい映画だったんだなと
時間差で感じた変わった映画だった。
以下ネタバレ含む自分の感想です。
今回不思議というかびっくりしたのは
アンドロイドなのに機能が停止すると「腐食がはじまる」という点だ。
つまり頭は機械でも肉体は生身っぽいのだ。
ではその体はどうやって作っているのか、だけど、
途中にでてくるテクノの博物館。
そこには昔世界を巡回していた「人体の不思議展」のような筋肉をむき出しにされた人間の標本のようなものが
飾られていた。
物語にはクローン人間もでてくるので、
ひょっとしたらテクノの体はクローン技術の応用で作られているのかもしれない。と思った。
今回映画でメインになったのは
今は禁止されたというアンドロイドが目にした風景の録画機能。
それをじっくりと見ることによって
ヤンはどんな世界を見ていたのかがわかってきて、改めて寂しく、とても悲しい気持ちになる。
アンドロイドといえど美しいと感じる感覚があり、愛情もあったことがわかってくる。
死ぬということ、老いということ、寂しいと感じることも経験していた。
だからヤンは優しく、すこし悲しい顔をしていたのかもしれない。
録画機能が廃止になった背景は、プライバシーの侵害以外にアンドロイドにとって必要かどうかわからない感情や愛情のようなものが芽生えるきっかけになることが秘密裏にわかったためかもしれない、と思った。
ヤンを展示するかどうか。
最初は受け入れる様子だった主人公の男性だけど、
ヤンの記憶を見て、彼の人間らしさ、そして家族にとっての彼は家族そのものだった
ということに気づいた主人公、そしてその家族は展示したくない、と思うように。
彼に対する喪失感を共有したとき、残され気持ちがバラバラになっていた家族は再び寄り添うことができていたように思う。
喪失感を乗り越えるのに必要なのは、同じように喪失感を持っている人との共感ではないだろうか。
ずっとぎすぎすしていた白人男性と黒人女性の二人が、かつてのように愛情深く寄り添ったシーンは胸が熱くなった。
また、展示に関してだが、先に話した
人体の不思議展。あれもひともんちゃくあった。
亡くなっているとはいえ、あの展示の仕方は死者への冒涜ではないか、と。
ただの動かなくなったアンドロイドを展示するのは抵抗がないかもしれない。動かなくなった車を展示するように。
でも記憶を持ち、感情や愛情をもったアンドロイドを展示するということは人間(しかも家族)を展示するのと同様で
やはり抵抗があるのだと思う。
アンドロイドやクローン人間の研究は私が知らないところできっとかなり進んでいるのだろうと思う。
なくなった人やペットをよみがえらせるクローン技術。
お手伝いをしてくれ、話し相手になってくれるアンドロイド。
人の望みを叶えることは幸せと同時に考えさせられるあらたな課題を生む、そんなことを感じた。
ちなみに、音楽はテーマとなる歌は印象に残ったが坂本龍一さんの音楽がどこに潜んでるかちょっと分からなかったです(^^:
この映画を観ようと思ったのは音楽が坂本龍一さんだったからだった。
監督脚本は韓国系アメリカ人コゴナダさん(変わった名前…)
ポスターには白人男性に妻と思われる黒人女性(しかも丸坊主)そして養女と思われる中国人っぽい可愛い女の子、そしてこちらも中国人かと思われる青年の写真。みんな別の方向をみていて、唯一女の子だけがヤンを見ているという構図が物悲しい。
青年の名前はヤン、彼はアンドロイドである日動かなくなってしまう。
彼が動かなくなったあとの家族の焦りや喪失感、彼の記憶を通して
彼の存在の意味など、静かに問いかけていくような作品。
映画が終わったときの感想は正直「あれ?終わったの?」ていう感じだった。
ずっと何かぼやけていて芯が見えないまま終了した感じ。
楽しかった、とか良かったとか悪かったとか何も浮かばないぼんやりした気分だった。
でもそのあとずっとあれはこういう意味だったのかななど考えるうちに、すごく考えさせられるというかいい映画だったんだなと
時間差で感じた変わった映画だった。
以下ネタバレ含む自分の感想です。
今回不思議というかびっくりしたのは
アンドロイドなのに機能が停止すると「腐食がはじまる」という点だ。
つまり頭は機械でも肉体は生身っぽいのだ。
ではその体はどうやって作っているのか、だけど、
途中にでてくるテクノの博物館。
そこには昔世界を巡回していた「人体の不思議展」のような筋肉をむき出しにされた人間の標本のようなものが
飾られていた。
物語にはクローン人間もでてくるので、
ひょっとしたらテクノの体はクローン技術の応用で作られているのかもしれない。と思った。
今回映画でメインになったのは
今は禁止されたというアンドロイドが目にした風景の録画機能。
それをじっくりと見ることによって
ヤンはどんな世界を見ていたのかがわかってきて、改めて寂しく、とても悲しい気持ちになる。
アンドロイドといえど美しいと感じる感覚があり、愛情もあったことがわかってくる。
死ぬということ、老いということ、寂しいと感じることも経験していた。
だからヤンは優しく、すこし悲しい顔をしていたのかもしれない。
録画機能が廃止になった背景は、プライバシーの侵害以外にアンドロイドにとって必要かどうかわからない感情や愛情のようなものが芽生えるきっかけになることが秘密裏にわかったためかもしれない、と思った。
ヤンを展示するかどうか。
最初は受け入れる様子だった主人公の男性だけど、
ヤンの記憶を見て、彼の人間らしさ、そして家族にとっての彼は家族そのものだった
ということに気づいた主人公、そしてその家族は展示したくない、と思うように。
彼に対する喪失感を共有したとき、残され気持ちがバラバラになっていた家族は再び寄り添うことができていたように思う。
喪失感を乗り越えるのに必要なのは、同じように喪失感を持っている人との共感ではないだろうか。
ずっとぎすぎすしていた白人男性と黒人女性の二人が、かつてのように愛情深く寄り添ったシーンは胸が熱くなった。
また、展示に関してだが、先に話した
人体の不思議展。あれもひともんちゃくあった。
亡くなっているとはいえ、あの展示の仕方は死者への冒涜ではないか、と。
ただの動かなくなったアンドロイドを展示するのは抵抗がないかもしれない。動かなくなった車を展示するように。
でも記憶を持ち、感情や愛情をもったアンドロイドを展示するということは人間(しかも家族)を展示するのと同様で
やはり抵抗があるのだと思う。
アンドロイドやクローン人間の研究は私が知らないところできっとかなり進んでいるのだろうと思う。
なくなった人やペットをよみがえらせるクローン技術。
お手伝いをしてくれ、話し相手になってくれるアンドロイド。
人の望みを叶えることは幸せと同時に考えさせられるあらたな課題を生む、そんなことを感じた。
ちなみに、音楽はテーマとなる歌は印象に残ったが坂本龍一さんの音楽がどこに潜んでるかちょっと分からなかったです(^^:
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